隅家

本とか音楽とか

夏目漱石『こころ』

 最近になって漸く『こころ』を真剣に読んだ。漱石と言えば真っ先に名前の浮かぶ文豪の一人で、とりわけ『こころ』や『坊っちゃん』は現代文の教科書に一部抜粋が載せられる程だから知らぬ人は少ないだろう。これは漱石に限った話ではないが、思うに、文学に特別の興味を抱いているわけでもない青少年に対して、教育の一環として古典的名作のわずか一部分を読ませるのは馬鹿げている。受け身で頭を通り抜ける文章と無理矢理流し込まれる紋切型の解釈のどこに価値があるのだろう。往々にして、ものの真価は発見される。価値は宿るものではなく宿すものだとすれば、自発的に見いだす意志のないところに真価は備わらないだろう。そういうわけだから、文章なんてものは読みたいと思った人間がそう思ったときに勝手に読めばいい。以上余談。

 

 ”神経質な自信家”という印象を漱石に抱いている。先に断っておくと私は漱石の文体が好きだ。無難、という表現がふさわしい。漱石の文は抒情を孕んだ文学的に味わい深い表現、しいて言うなら詩的性質を帯びた文章ではない。その文体は詩的、というよりむしろ明晰に近い。しかしそれでいて細部にこだわりを見せる緻密な描写を多用するわけでもない。最低限の表現で明晰に、だから漱石の文は読みやすい。読みやすく、大衆を惹きつける。大衆に向けて発せられている点は特徴の一つだろう、雑誌掲載時代の工夫だろうか。内省的なテーマというよりは大衆ウケに寄っている。大衆的な”面白さ”と”読みやすさ”、しかしそこに知性と教養は隠されきっていない。これらが漱石の文章を作っている。必要なことを最低限、必要とあらば文に意匠も凝らしてみせる。漱石の文は繊細だが自信に満ちている。その力量は読みやすさとしてこちらに伝わる。

 

 第一に苦悩、第二に死の観念。こんにち「死にたい」など言おうものならネガティブな人間、自分の人生を自ら楽しむこともできない面白味に欠けた人間、口だけ、メンヘラ、鬱病気取りと何を言われたか分かったものじゃない。自分の生死と向き合わない人間よりは世を倦んで厭んで口だけでも死にたがってる人間の方が私はよっぽど好きだ。生に希望を見いだしている人よりもそれができない人間の方が人間らしい。「死にたい」を煙たがる人間の方がずっとくだらない。私が物語に苦悩と死を求めるのはこういうわけだ。以下本題。

 

 『こころ』は二つの自殺から成っている。一つは先生、一つはK。発端は同じでもその内実はまるで違う。Kは自らの信念と行動(あるいは感情)の矛盾に苦しみ、先生は自らの卑怯な—前半で描かれる先生と後半の遺書を読めば、ただ否定的なニュアンスだけでもって先生を「卑怯」と称したくはない。だがここでは先生の立場に依ったうえで敢えてそうしている—恋の顛末としてKを死に至らしめたことに苦しみ続け、ついぞその命を絶つ。

 

 先生は自らの言葉と態度が原因でKを自殺させてしまったことを生涯悔い続けた。言葉、態度、というより根本は心持だろう。常に付きまとう人間への疑心がそうさせた、欲を持ちながら疑心を捨てきれず進み出せなかった結果としてKとお嬢さんが恋仲になることを恐れるまでに至ったというのに、一方で先生はお嬢さんをKに奪われることを完全な自分の非として諦めることはできなかった。煮え切らぬ自らの態度が招いた結末を受け入れずに搦手をとり欲がKを殺したことを悔いていた。先生の話は後でいい。「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」、この言葉の代わりにKが自らの恋路を進みぬいてよいと思えるだけの尤もらしい理由を与えて、大手を振ってKを応援してやっていたらKは死ななかったか。お嬢さんの件ではたぶん死なずに済んだろう。でもどうせKは死んでいたと思う。死んでいたか、些か中庸に寄って、長さだけでなく人間的魅力も引き延ばされた生を送ったかどちらかだと思う。尤も、Kの幸せは後者の道にあったに違いない。お嬢さんと結ばれたとすれば、些か信念は失って妥協の色合いを生涯のうちに隠しきれずにはなったかもしれないが、一種の殊勝な諦めが兎にも角にもKが自らの人生に納得するだけの余裕は与えてやれていたかもしれない。少なくとも先生次第では二人は正々堂々とお嬢さんを奪い合うこともできたのだろうからどうあれ先生の苦悩は尤もだ。

 それはともかくKには死んでほしい。『こころ』で一番好きなのはKが死ぬことだ。自らが生きる道、理想への強い信念を抱き続けたKがそれら全てを裏切る自らの感情に悩み自殺する。道への裏切り。それで死ぬからKに憧れる。Kは恋に破れて命を絶ったのではない。Kは自らの信念と矜持がために死んだ。信念との矛盾を先生に突き付けられたKは言う、「覚悟ならない事もない」。信念に背いた自らの生への償いとしてKはその命を絶つ。Kは自らの道に生を賭している。私はつまらない人間にはなりたくない。やりがいも見いだせないことを惰性で続けるのは糞だ。でももしそうなってしまったとき命を絶てるだろうか。きっと怖い。たとえ自分の信念に背いた生き方をしていたとしてもなんだかんだと理由をつけてみすぼらしく生きるに違いない。Kは死ぬから良い。不幸せを引き受けて一念を貫ける人間がどれだけいよう。

『馬鹿だ』とやがてKが答えました。『僕は馬鹿だ』

 

 

 「私」は「淋しい」から先生に会いに来るのだと先生は言う。ところによって読み方が「さびしい」でなくて「さむしい」なのがいい。「私」は自分が「淋しい」のだとは思わない。自分が淋しいのか分からないとき、君はいま淋しいんだよ、と言ってもらえることはどれだけ有難いだろう。先生は自分のことを淋しさを埋めるための下級の代替ぐらいに思っている様子だったが、ここほど先生をあたたかく感じた場面はない。

「…ことによると貴方も淋しい人間じゃないですか…」

「私はちっとも淋しくはありません」

 

 

 小説に警句を挟むことは結構だが、わざわざ筆者としての立場を断って挟み込もうとするのは興ざめだし、人物の口を借りて無理矢理社会批判を語らせるなどもつい作者の時代背景を考えてしまって味気がない。印象的なアフォリズムを違和感なく挟むことにはやはり相応の文才が要るのかもしれない。有名な『草枕』の冒頭など、漱石の文章の中には毒気があって、しかしどこか的を射た文句がするりと入り込んでいることがある。

 先生の遺書の中で好きな文句がある。

 

「…私は冷かな頭で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。…」

 

 「生きている」というところがまたいい。

 人と違いたがる人がとても多い。「変人」は誉め言葉になりつつある。「変わっている」と思われたくて型を破ろうとする人ばかりで気分が悪くなる。破る型も碌に身に着けていない人間がどうやって型を破るのだろう。跳ね返ってみるよりも先に力強く受け入れてみることが必要だ。跳ね返るのはそれからでもいい。