カミュ『異邦人』
初めて読んだカミュの作品が『異邦人』だった。あらすじを読んだ段階では気狂いじみた人間が主人公の風変わりな話で、フィクション、娯楽として完成された読み物なのだろうと勝手に考えていた。ところがいざ読んでみると遠い世界の話のようで中々共感をそそるような感触がある。それも安っぽい共感ではなく、痒い所に手が届くような共感だ。そういうわけだから『異邦人』は私にとってお気に入りの一冊になっている。
海外作家の作品を読むとき、いつも自分は十分に作品を味わえているのだろうかという疑念が付き纏う。疑念というよりむしろ、十分に味わい切れていないだろうという確信に近い。名作は何ヶ国語でも生まれているというのに自分に馴染みのある外国語は英語ぐらいのものでそれにしたって文学の冠がついた本を読むにはべらぼうな時間と頭痛が必要になる。仮に原文で読めたとしても母国語が日本語なのだからどうしたって一度日本語のものとして咀嚼する作業が入り込んでしまう。それなら初めから一流の翻訳家の手になる訳本を取っておけば十二分ということになるが、しかし訳された言葉によって本来の文が持つ味わいを同じように味わえる筈がない。そういうわけで海外の本には常に推測が付き纏う。元来物語の内容と同等以上に書かれ方や文体を楽しみたく思っている自分にとってこれほどの障害はない。しかし文体を気にしたいのはこれは性分であるから、原文に触れず訳本のみに頼っている身でありながら文体も含めて思うところは書いてしまいたい。
これは後になって知ったことなのだが、カミュの文体は誠実と評されることがあるようだ。誠実、という言葉が具体的に何を意味しているのかは知らないが、実際ある種の真面目さみたいなものはあるように思う。訳であるからして推測するしかないのだが、のちに『ペスト』を読んだときに、「元の文章はたぶん関係詞が多いのだろうな」と感じることが多々あった。「〜の、〜するところの〇〇が〜」といった具合に一つの名詞が様々に修飾されている箇所が散見される。これはおそらく『異邦人』についても同じようなもので、日本語は後ろから修飾するということがないわけだからやはり普段読む本のようにスムーズに内容は入ってきてくれない。しかし日本語としての文の構成に難解が生じるということは元の文章ではそれだけ長さと堅さが格式の中に収まっていたということなのかもしれない。その言語感覚を知識的にも生得的にも十分に見定められないことは重ねて惜しいが、誠実さなるものがカミュの文章にあるというならこのあたりの感慨の由来がそれだろう。以下内容。
「どうせ伝わりやしないだろうな」という感覚が往々にしてある。自分なりの信念と道理に基づいて最善を選んでいるつもりでも、傍から見るとそれが全く自然でないことがある。それが咎められるものだからこちらも「それなら」というつもりで持論を言って聞かせるのだが、自らの物差しを一番信頼している人間というのは質が悪いもので、こちらが整然と説こうとするほどにあちらには躍起になっているように映ってしまう。引き下がった振りだけして心中で「斜に構えた人間」のレッテルをこちらに貼り付けてくる者もあれば、あからさまにこちらを子供に見立ててあしらおうとする輩もいる。深追いするのは全く愚策であって、理屈で言い負かそうとしたところで、向こうは益々躍起になっていると見て物差しを固めるか、「はいはい」と取り合わず、真剣な吟味でもって自分の理論と戦わせることをはなから選択肢の外に置くかが関の山だ。しかし追わなかったところで相変わらず「理論の通っていないこども」のレッテルは勝手に貼られるのだからこれほど損なことはない。全く、他者理解に欠けていながらそれに無自覚であるのは中々醜悪だ。
長々と持論を書いたのは、詰まるところ私の思う『異邦人』がこういう話だからだ。少なくとも私は「どうせ伝わりやしない」の諦めと呆れ、そしてそれゆえの無感動と無関心をこの話から感じ取った。主人公のムルソーが為すことは常軌を逸している。しかしそこには常にムルソーなりの理屈がある。もし『異邦人』の主人公が別の人間であったら単に物語の方向性という意味でなく、作品の質感自体が全然異なるものになっていただろう。私たち読者はムルソーの中に入ってその心理を知るからこそ、そこに一先ずの理屈があることを知る。しかしまるで関係ない誰かが観測者となって『異邦人』を眺めるのであれば、ムルソーはただの異常者でしかない。それが恐ろしくもある。ムルソーにはムルソーの理屈があるが、その理屈同士の関係としての論理ではなく、理屈を構成している心理作用としての論理自体が人と異なっているから誰もムルソーの理屈が分からない。分からないでただ異常者の烙印を押す。しかし人々は自分が「分かっていない」状態にいることを自覚していない。自分の物差しに照らし合わせておかしいのは相手だと決めつける。たまたまその物差しが多数派と一致していたからムルソーが異常者なのだと思い込む。そしてムルソーは真意が、というより自身の心理作用が厳密に、正しく伝わっていないことを内心に知っている。その歯痒さの表現として『異邦人』を見ればやはりそこにはよく言われる「不条理の哲学」が良く現れているのかもしれない。
『異邦人』に物語として深みを与えているのはムルソーの実直さにあるように思う。ムルソーは自身の理屈が「どうせ伝わらない」ことを知りながら、というか知っているからこそ、どのような理屈であれば伝わるのかも自ずと気づいている。多少の偽善を取り繕うだけでムルソーは死刑を免れることはできたのに敢えてそれをしないで「どうせ伝わらない」心理を淡々と述べる。しかも伝えようと言葉を尽くして努力するわけでもない。そのムルソーの態度に私は超然の何かを感じる。他者理解に心底欠けた大衆への絶望とそれ以上の蔑み、あるいは嘲笑。どうせ自分の言う事を理解しないであろう他人をどこか見下し憐れみ、「はいはい」とでもいうような調子で呆れたように伝わらない言葉を述べる。しかしそのあり方は実直そのものだ。場を支配しているルールを正しく理解する洞察を持ち合わせていながらその下らないルールに敢えて乗じようとせず、ある種の正直を貫く。私の共感をそそるのはその態度だ。