隅家

本とか音楽とか

The Beatles 『Rubber Soul』

 

 

 以前友人と音楽の話で盛り上がったことがある。当時電車を数時間乗り継いで大学まで通っていたその友人は、すでに3年が経過していた毎日の登下校の時間全てを音の摂取に捧げていたらしい。国内外を問わず多様なアーティストの曲を聴き込み、音楽専用機と化した古い携帯の容量64GB全てを音楽データで埋めた彼の引き出しは流石に凄まじく、またそこへの知識のしまわれ方はどこか学問的でさえあった。聞いたところによると、初めはビルボードだかCDの売り上げだかのランキングを頼りに年代ごとの名曲を聴いていたのだが、次第にそれぞれの音楽ジャンルの歴史やルーツ、バンド同士の相互関係が気になり出して、枝分かれ的に知識が増えていった結果、その音楽マッピングが徐々に立体性を帯びてきたらしい。正直に言うと、その時僕はその友人の話しぶりに思わず、何か敬意のようなものを抱いたのだった。思えば他人に敬意を抱いたことなどその一回限りかもしれない。「出会い」を神聖化し、探求を怠っていた僕が洋楽の「お勉強」を始めたのはこういう理由である。

 

 八帖の下宿先にパソコンを広げ、相棒のウォークマンに『Rubber Soul』を取り込んだ時には、それから数週間が経っていた。趣味嗜好によってやや歪まされていたものの、その時には僕も多少は知識を増やし、また風情を解する豊かさも育んでいた。ただ一方で、直接的に僕と『Rubber Soul』を結びつけていたのは一人の素晴らしい友人ではなく、僕が当時好んで読んでいた作家、村上春樹であったことには触れておきたい。村上春樹の小説には様々の音楽が登場するが、中でもビートルズが登場する作品は多い。代表作の一つである『ノルウェイの森』はその題自体が『Norwegian Wood』の和訳となっているし、作中人物である「レイコさん」が弾き語る曲の多くは『Rubber Soul』に収録されている。『ドライブ・マイ・カー』や『32歳のデイトリッパー』なんていう作品もあった筈だ。また『ラバー・ソウル』の名は、僕の愛する初期三部作が二作目、『1973年のピンボール』にも登場している。してみると、ある時期を越えた段階でもう、僕と『Rubber Soul』との出会いはいずれの先の運命として決定されていたわけである。

 

 僕が持っている『Rubber Soul』は国内盤のものだ。背ラベルの片一方にでかでかと「ザ・ビートルズ ラバー・ソウル」の字が書かれているのはあまりにセンスに欠けていて気に食わないが、アルバム全体と曲一つ一つに解説が付されていることは何とも有り難く、また素晴らしい。

 

 さて、解説は国内盤にお任せできても感想は自分で語るしかない。だが実を言うと、僕はもう何度も聴いているにも関わらず『Rubber Soul』の収録曲全てを諳んじることができない。

 僕はアルバムというCDの形式を好むが、優れたアルバムというものは「飛ばせないアルバム」ではないかと思っている。これは自身の経験則でもあるが、大抵の場合、たとえ好きなアーティストのアルバムであったとしても、その中の1、2曲ぐらいはそこまで響かなかったりするものだ。どうあれ好みというものは存在するわけだし、後に控える好みの曲のために多少自らを焦らすような気持ちで前の曲を聴くこともあれば、好みの曲だけを選び取るように飛ばし飛ばし聴いてしまうこともある。

 何も『Rubber Soul』の曲全てが名曲であるのだと言いたいわけではない。いや、ビートルズそのものの偉業から考えて、それら全てが名曲であることは間違いないのだが、僕個人に限った話をすれば、その全てが僕史上最高級の名曲、というわけではない。それでも僕が『Rubber Soul』を飛ばすことができないのはきっと、僕にとって『Rubber Soul』が幾つかの曲の集まりではなく、既に一つの曲であるからだ。『Rubber Soul』という一曲を飛ばし飛ばしに聴くような趣味は僕にはない。

 

 愛すべき国内盤の解説によると、この『Rubber Soul』ではそれまでのサウンドが一新され、ちょっとした音楽性の転換が為されているらしい。僕はコードとか演奏技法とか様式とかビートルズの歴史とか、そういったものを詳しく知らないから、やはり聴いたままの印象で語るしかない。

 ビートルズの音にはどこか心地の良い軽快さがある。耳にのしかかるような重厚ではなく、それは海のさざめきに似た音の跳ねだ。海というのは中々どうして、僕が持つイメージを言い表している。春夏秋冬で言うなら夏、それも縁側と入道雲が作り出す日本的な茹だりと郷愁の夏ではなく、潮と砂浜と窓辺が持つ陽気な、それでいて始まりと終わりが幾重にも重なった夏のイメージをその軽快さの中に感じる。もちろん単に底の抜けた明るさばかりがあるわけではない。ある曲はむしろ秋に近い、月に近くて夜に近い。しかしそれは詰まるところ懐古の一瞥であって寂寞の虜囚ではないのだ。海辺を車で走る、窓を下ろして風に触れる、少しサングラスを持ち上げて鼻唄、それにしても暑い…。『Rubber Soul』はそんな夏のイメージの中に煙草的な懐古が畳み込まれている。軽快なサウンドに時々、じんとくる、しかし悲痛とはまるで異なる思い出の味が挟まれる。ほんのいっとき惜しむ素振りをして、次にはまた鼻唄に戻っている…。やはり僕にとって『Rubber Soul』は一つの曲だ。

 

 そうは言っても、好きな曲のサビばかり繰り返して聴いてしまうように、僕も『Rubber Soul』の中に好きな部分を持ってしまっているのは事実だ。特別のお気に入りは7曲目の『Michelle』と10曲目の『In My Life』。『In My Life』の方は前にCSN&Yの記事で少し触れたと思う。多分だけれど、僕の洋楽の趣味は結構分かりやすい。いかんせんこの手の曲に弱いらしい。『In My Life』の方はイントロで既に好きだと確信していたのだが、有り難いことに、終わりまで好きな曲であり続けてくれた。朝まで酒屋で飲んでいた人たちが店じまいの時にみんな一緒になって歌っているような、終わりを感じさせるしんみりとした調子を持ちながらも、ただ哀しいだけではない趣がある。曲が終わった時の感覚は、エンドロールを終えて映画館が明るくなっていく感覚に少し似ている。『Michelle』の方ははじめ『Rubber Soul』の一部でしかなく、まだ僕の中で名詞化されていなかったのだが、曲半ばぐらいの「I love you...」が聞こえてきた瞬間から『Michelle』になった。せっかくなので我らが国内盤の解説を読んでみたのだが、どうやら歌詞は中々難解であるらしい。しかし、この際それは関係ないだろう。『Michelle』は僕の中では、遠くにいる愛しいひとのことを歌った曲だということになっている。ミッシェルという名のその人はきっと、遠い思い出の中に住んでいるのだ。そして今や手の届かないその思い出のミッシェルに向けて、情熱を押し殺した切実な「I love you」が溢れる。僕にとっての『Michelle』はそういう曲だ。

 

 実を言うと、ビートルズに関してはおそらく知らない曲の方が多い。本と同じで、何か一つを聴けば他の何かが聴きたくなる。それを繰り返すうちに全く違う場所に辿り着くこともあれば、一つの場所に永く留まり続けることもある。ぐるぐる回ったあげく元の場所に帰ってきてしまうようなこともある。そんなわけだから僕の歩みはあんまり遅い。どうやら「お勉強」はまだまだ続くらしい。