隅家

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遠藤周作 『海と毒薬』『留学』『沈黙』

 初めて読んだ遠藤周作の作品が『沈黙』だった。『海と毒薬』を最初に読むべきだったと反省している。というのも、『海と毒薬』は私の中で『沈黙』に対する一つの解答編の形を成していたからである。

 自分が読んだ『海と毒薬』の解説には、この作品と『留学』『沈黙』を一種の三部作として読む方針が示唆されていた。私は結果的には『沈黙』→『海と毒薬』→『留学』という順番で読んだのだが、これらが一種の三部作であるという意見については全く同意であるため、本記事ではこれら三作をまとめて扱いたいと思う。

 

 当初『沈黙』という作品がそれほど深く響かなかったのは、そこで語られているテーマに一歩踏み込み切れない感覚があったからであった。ごく表面的に取れば『沈黙』で主として描かれているのは信仰と現実との矛盾、あるいは苦悩、葛藤であり、「沈黙」の語は分かりやすくは「神の沈黙」という事態を述べた語となっている。しかし構成上むしろ目を引くのは、終盤近くで登場する「日本という土地で基督教は根付かない」という主旨の発言である。ここでは『沈黙』が、たんに信仰上の葛藤を題材とした作品ではなく、こと日本という舞台に特別の焦点を当てた作品であることが示唆されている。つまり、『沈黙』は仮に全く同じシナリオであったとしても、その舞台が日本でないのなら成り立たない訳である。これを意識したとき、この作品に対して多少の混乱が起こる。この混乱については正直、『海と毒薬』『留学』を経てその正体を言語化できたのだが、一言で表すとそれは『沈黙』のテーマがまばらであるという印象に尽きるだろう。(尤も、『沈黙』が単体で完成されていないなどと言うつもりはない。たんに私が『海と毒薬』『留学』の助けを借りねば『沈黙』を十分に味わうことができなかったというだけの話である。)

 表面的には信仰上の苦悩を描いた『沈黙』であるが、物語中ではこの日本という土地に対する語りも幾度か登場する。そこで当然我々の視線も土地そのものへと向けられてゆくのだが、しかし我々が『沈黙』において観測するのは、あくまで異邦人たる潜伏司祭の内面であり、それは日本を外から客観する立場にある。我々は『沈黙』で日本という土地に踏み込んでゆくのにこの異国の潜伏司祭の目を借りねばならず、したがって完全に「日本」の内側には入らせてもらえない。しかし神や宗教の不在というテーマを通じて「日本」を描き出すつもりであれば、他ならぬ「日本人」の描写は中心に据えられて然るべきだろう。異国出身の潜伏司祭がその中心にいるのであれば、「日本」はあくまで神を持たぬ土地としてのみ対象化され、「神の沈黙」という宗教的葛藤へ物語を運ぶための道具と化してしまう。しかし、やはり『沈黙』で描かれている内容がそのようなごく分かり易いテーマに留まっているとは考え難いのである。

 

 こうした事情に対しての解答編こそ、『海と毒薬』であった。『海と毒薬』では紛れもなく我々日本人が持つ一つの顔が描かれている。もちろん中盤の「おやじ」が手術に失敗する場面の緊迫感や、戸田の冷笑的でどこか人間的な語りも読み過ごせない箇所ではある。しかしそこで最も露わに描かれているのは、何か巨大なうねりの中にぽつねんと立つ日本人の姿だろう。

 選択肢というものは得てして期限付きであることが多い。決断を渋るうちに一方の選択は最早選ぶことが出来なくなってしまい、選択を保留したつもりで問題を消極的な一択に変えてしまう。そして我々は、時に半意図的にそうした保留を行う。この身を押し流そうとするうねりの中で、ことさら否定も肯定もしない間に、この身は流れの中に投じられている。私が『海と毒薬』に見たのはそうした日本人の姿だ。限られた状況を我が身に反射させながらも、一方で是も非もないような態度でうねりに身を任せるともなく任せる。これはたんに受け身であるとか、ノーを言えないとか、そうした話ではない。言わばこの巨大なうねりとの付き合いは我々日本人なりの哲学であり、少なくとも遠藤周作は『海と毒薬』の中で、うねりの中にあって寄る辺を持たない、あるいは持とうとしない日本人の姿を見せたのである。

 『海と毒薬』では既に「神」の語が登場している。先に書いたような日本人の姿を、遠藤周作が「神の不在」という事態と結びつけていたことは間違いないだろう。そして尚注目すべきは、『海と毒薬』では、この「神」はごく象徴的な意味を持って登場している点である。『海と毒薬』で言われている「神」とは、自らをどこかへ運んでいってくれる存在のことであり、先の喩えに沿えばこの「神」とは、うねりの中で自らに往くべき道を示してくれる存在、あるいはうねりの中からこの身を掬い出してくれる存在のことである。勝呂が解剖実験に参加する運びになったのは、結局彼がこの「神」を失っていたからであった。

 ここまで分かれば、「神」を失ってうねりに委ねられた勝呂の姿が日本人全体へと拡張され、「神」がキリスト教の中で具体化されてゆく流れは自然であるように思われる。これまでの内容を踏まえて一度『海と毒薬』→『沈黙』の流れを整理してみよう。

 まず『海と毒薬』で描かれていたのは、巨大なうねりの中を、流れるともなく流れる空(くう)的な日本人の姿であった。そのような没意志的な日本人の有り様が、自らをどこかへ運んでいってくれる「神」の不在に起因していることもまた『海と毒薬』で示唆されている。すると今度は、なぜ勝呂にとって——つまり日本人にとってという意味だが——「神」が不在であるのかという疑問が生じてくる。『沈黙』はこの疑問に対して、土地が原因だという答え方をしていると言えるだろう。無論、この土地とはたんに地理的なものではなく歴史的延長を孕んだ土地のことである。すなわち、既に「神」が根付くことのなかった日本という土地に、もう「神」が根付くことはない、もっとあからさまな言い方をすれば、一度キリスト教が根付かなかった日本で、キリスト教が根付くことはもうないのだということが『沈黙』で言われている。尤も、これが何一つ実質のある言ではないことは明らかだろう。第一にこれは国が先か人が先かというややこしい問題に踏み込んでいるし、そもそもかつて根付かなかったから今回も根付かないという主張は何の意味も為していない。なぜかつては根付かなかったのかという疑問を再び呈すれば、自ずと「日本人」に対する分析は必要となるだろう。

 しかしこれらの点にこそ、一種の宗教観が現れているような印象もしなくはない。あるいは遠藤周作は「海」という物理的な障害を原因の一つとして暗に仄めかしていたのかもしれないが、ともあれ歴史の先行性という考え方が姿を見せていることははっきりしているのではないだろうか。簡単な話をすれば、もし私がキリスト教を奉ずる家系に生まれていたとすれば、今私はキリスト教の信者であった可能性が高い。もし私が日本よりずっとキリスト教の盛んなヨーロッパの国で敬虔な親を持って生まれたとしたらその可能性はさらに高い。既に根付いていないから根付かないという答えは中々本質的でもある。なぜ歴史の中で宗教が流行る地域と流行らない地域があったのかという問題は既に文学者が答えるべき範囲を超えているだろう。そもそも歴史という偶然性の巣窟の中ではキリスト教が現在のような一大宗教へと発展しなかった可能性自体十分にあるのだから、全ての歴史の経緯に必然性を求めるのは土台ナンセンスな話でもある。ともかく、私が生まれた現代日本の一家庭には宗教は存在しておらず、また私はいかなる宗教も奉じていない。しかし、もしこれが信仰盛んなヨーロッパの家庭であればそうはならなかったかもしれない。ここには既に「私」という個人の意志を超越して、あるいは先立って、無自覚のうちに「私」個人を支配する環境の存在が認められる。『留学』との関連の中で後にも触れるが、『沈黙』において遠藤周作が、前生命的、先天的に存在する「土地」に目を向けていたことは間違いないだろう。必然の因果の中で「日本人」を描くことへの限界から、『沈黙』では日本という土地が一種不可解な歴史的不透明性を備えて登場してくる。日本人が神を不在化させるのではなく日本が神を不在化させる。その日本で生まれてくる日本人は当然神を持たない存在だ。『沈黙』が異邦人の目を通して描かれたこと自体が、既に「神の不在」問題に関連した遠藤周作の関心が個人の内面から離れていることを語っている。『沈黙』は、たんに信仰にまつわる葛藤を描いた物語ではなく、神を不在化させてしまう日本という土地の、あるいは歴史の、得体の知れない窪みを描いた物語でもある。『海と毒薬』で示された「神なき日本人」の謎は、その窪みの中へと投じられ、畳み込まれている。

 

 『沈黙』は「異邦人」が「日本」の中で信仰を失う(「失う」という表現は結果論的ではあるが)物語である。それを裏付けるように、『留学』では「異国」の中の「日本人」が描かれている。『留学』と『沈黙』は対照的な構図を持った作品だ。

 とりわけ第二章『留学生』は『沈黙』との関連性を考える上で非常に重要に思われる。『留学生』は最早『沈黙』のプロトタイプと言っても差し支えがないだろう。ほぼ唯一であり、同時に最も重大な違いこそ、日本の地で信仰に転ぶキリスト教信者が『留学生』では他ならぬ日本人であるという点である。『沈黙』において感じた日本人の内面描写への欲求はある意味『留学』において既に満たされていたわけである。だからこそ『沈黙』において主役が異邦人へと変わった点は、やはり遠藤周作自身が自らの関心に取り組もうとした際に「人」より「土地」や「歴史」を重視したためであるといっそう思われる。『留学生』の内容に関しては第一章『ルーアンの夏』と合わせて考えると分かり易い。日本人たる荒木にとって、日本にキリスト教を布教するという大義は決して自然な願望ではない。それはキリスト教と歴史を共にした人々の願望であり、荒木にとっては押し付けられた期待でしかない。「宣教師たちは信徒たちに殉教の夢を強いている」と荒木は考える。宣教師たちは「殉教だけが今は神につながる道」だと考えている。しかし信仰をそのように変質させるのはやはりこの、日本という土地なのである。すぐ後に荒木は考える。「そんな苛酷な道しか信仰にないのか」。当時の日本においては信仰を果たす手段は殉教しかなかった。やがては荒木自身も転ぶこととなる。しかし荒木が信仰を貫けなかったのは果たして彼自身のせいなのか。あるいは苛酷な信仰しか許容しなかったその土地がためなのだろうか。この問いには答えはない。なぜなら実際荒木はキリストと歴史を共有しなかった日本人であり、布教の夢に沸き立っていた異邦人ではないからだ。それゆえその答えは『沈黙』において示されることとなる。日本への布教を志すセバスチャン・ロドリゴが辿る命運にその答えがある。

 『留学』は特異な構成をしている。その文章量から言っても最も重要であるのは第三章『爾も、また』だろう。宗教的な言い回しを連想させる題ではあるが、実際の物語中では宗教は主題から外されている。しかし先にも書いたようにこれは『沈黙』と対照的な作品である。外国文学者である田中は留学先のパリでの生活の中でヨーロッパが持つ歴史の重さに絶望する。石造りの街が象徴的な意味を兼ねて立ちはだかり、ルビーの言葉が何度もリフレインする。「君がなぜサドをやるのか分からん」。留学をしてみたところで結局田中はパリに生まれ育った人間ではない。その土地が持つ歴史を、環境を、どうやっても自らの血肉とすることができない。

 ここでは『海と毒薬』と『沈黙』を合わせて扱っているから、いっそこの『留学』を『沈黙』への下準備として解釈してみたい。『沈黙』において「日本」という土地へ目が向けられることは再三書いた。『海と毒薬』において後にキリスト教として具体化される「神」が象徴的に導入されていたように、『留学』においても、後に日本として具体化される「土地」が象徴的に導入されている。布教の夢を持って日本を訪れた潜伏司祭の姿はそのまま、研究の前進を願ってパリを訪れた外国文学者の姿である。日本人たる田中は、本当の意味でサドを、彼の文学を理解することはできない。「九官鳥」の揶揄を受けて、劣者の自覚に耐えながら真摯に異国の歴史と向き合おうとし、それでも結局は病に冒される。仮に健康を損なわずとも、異国に同質化しようとした者の惨めな末路は、既に小原や藤堂によって示されている。一方で巧みに異国から目を逸らし、器用にそれと付き合う連中は結局は無難な成功をおさめる。異邦人はその国の人間になることはできない。まして国を変えることもできない。田中は異邦人ながら真剣に異国と向き合おうとして志を折った。セバスチャン・ロドリゴは国を変えようとして信仰に転んだ。どちらも異国の土地に不相応に踏み込もうとして飲み込まれたのだ。

 

 歴史が変えられないように、歴史の厚みが凝集された土地を変えることもまた、できないのだろう。異邦人はいつまでも異邦人であり、その土地を自らの色に染めることはできない。この神がいない土地で依然日本人は生まれ続ける。結局この日本から神を追いやったものは何だったのだろう。あるいはやはり、海が阻んだのだろうか。