隅家

本とか音楽とか

夏目漱石 『虞美人草』

 私は漱石を敬愛してやまない。作家を名乗り、不遜にも文学の冠を一点の留保もなしに戴く輩は数あれど、漱石の文章に並び立つ才気は、少なくともそれを超えるような才気は未だ私の前には現れていないと信じている。漱石の文学の最大の魅力は知と俗の併存だ。難解な、とりわけ現代人たる我々にとってはいっそう難解な語彙の数々が、しかし文章としては平易な形で我々の前に差し出される。深い洞察を散りばめた表現の数々が、テーマとしては身近な全体を創りあげる。それゆえに時代を隔て、ともすれば部分的に言語さえも隔てた言葉たちが依然生き生きとして手の平の紙片から飛び出してくるのである。私はその中に漱石という人間を見る。知識人としての余裕を、あるいは嘆きを。鋭い人間観察の片鱗を。そしてそれら全てを創作の中に敢えて葬り超然と構える漱石自身の姿を。私にとって『虞美人草』は『こころ』に並び立つ名作であった。

 おそらく、外面上『虞美人草』の最大の特徴は、その軽快な会話文の数々にあると言えるだろう。第三者的な描写を挟まない鉤括弧の連続が全編を通じて作品の根幹を成している。その中身はどちらかと言えばある種の言葉遊びに近く、明確な知に支えられた軽妙な言葉の応酬がそこでは繰り広げられている。こういった趣は『三四郎』のような作品にも見受けられたように思うが、『虞美人草』においてはより極端である。場面によっては見開き2ページの半分以上が登場人物らの短文による会話の応酬に割かれている。そこでの余白の多さは、日頃からの小難しい表現の咀嚼に疲れた一部の読者家たちにとっては安心極まりない空白であろうが、その余白をなぞり終えればすぐに活字と文字世界の洪水に我々は飲み込まれることになる。とりわけ『虞美人草』において散見されたのは抽象世界を行き来しながら場面の展開を描写する技法である。登場人物たちの掛け合いは往々にして二階の表現によって比喩される。ひとたび人物が比喩を受けたか思うと、続く文章ではその人物はもう固有名詞ではなくまさにその比喩によって獲得された抽象世界の一般名詞として表現されている。名前を持った人物らの行動を追いかけていたつもりが、いつの間にか存在しない抽象世界での出来事を解釈する形に変わっている。しかしそこには混乱ではなくむしろ一定の明晰さが備わっているのである。見かけ上難解に見えるその表現たちも、正しく比喩表現らを紐解けば『虞美人草』世界の現実で起こっている繊細な感情の動きや会話の微妙なニュアンスをより精緻に理解するための足がかりとなる。それはひとえに比喩の巧みさ、「比喩」たるものの本分の遺憾なき発揮、つまるところ、私が冒頭で賞賛したような文才に由来しているだろう。再び断っておくのだが、私は漱石を敬愛してやまない。無論それは私が漱石の思想に全面的に共感する理由には僅かたりともなりえない上、むしろ好ましく思っているからこそ、漱石が描き出すテーマに対しては常に最大の批判をもって臨むべきだと思い、実際そうしているが、しかしこと文章の洗練という観点については私はただ漱石に脱帽するばかりである。以下に、私が『虞美人草』の中でもとりわけ好きな一連の文章を引用させていただく。

 

 水底の藻は、暗い所に漂うて、白帆行く岸辺に日のあたることを知らぬ。右に揺こうが、左りに靡こうが嬲るは波である。唯その時々に逆らわなければ済む。馴れては波も気にならぬ。波は何物ぞと考える暇もない。何故波がつらく己れに当たるかは無論問題には上らぬ。上ったところで改良は出来ぬ。只運命が暗い所に生えていろと云う。そこで生えている。只運命が朝な夕なに動けと云う。だから動いている。——小野さんは水底の藻であった。

 

 諦観と達観の入り混じった現実の受容がただ波に揺られる藻の姿に喩えられている。その境遇をつらいとは思うのだが、水底の藻は岸辺に日が差していることを元より知らない。暗いところしか知らずに、ここは、生とは、そういうものなのだとただ身を委ねている。敢えて「水底の藻」に比喩を託す感性もさることながら、むしろここでは文章全体を通して「運命」の語が独特のニュアンスを持って重たくのしかかっている点が見事に思う。一連の文章の終盤に登場する「運命」の語がただちに「水底」の語と共鳴し合いながら読みを後押しする。「そこで生えている」「だから動いている」という印象的な表現を経て、最後にこれら「水底の藻」の比喩が小野さんという一人の男の元へ帰せられる。これにより以降、「藻」という言葉、そして水底の世界は固有に小野さんを導く表現となる。さらに注目すべきは文章としてのリズムの良さだ。短文を差し込むタイミングが絶妙である上、そうでない箇所も堅い言葉遣いでありながら、一方で不要な重たさがない。無理にあれこれの付加情報を載せようとする文章は必ず語呂が悪くなる。文章を切り分けすぎた短文の羅列は単調になる。ここでは読みのリズムが乱されることなく、気づけば小野さんの元まで読みが辿り着いている。その手腕は鮮やかである。

 

 さて、小野さんという登場人物が現れたところで内容について話をしようと思う。『虞美人草』とは、本当に一言でまとめてしまえば恋愛群像劇である。しかし恋愛とは言っても、そこからすぐさま連想されるようなロマンスは影を潜めていると言っていいだろう。『虞美人草』ではそのイデア的側面より、恋愛の現実的側面にいっそうスポットが当たっている。詰まるところ、『虞美人草』で描かれる恋愛というのは、誰と結婚「すべきか」といった、実利的な部分を前面に押したものである。無論群像劇であるゆえ、純真な恋心も正しく存在し、また場面によってはそのいじらしい姿を我々は垣間見ることができるのだが、しかし総じて評するのならやはり『虞美人草』における恋愛とは損得といった観点と深く結びついたものである。そのために『坊ちゃん』に見られるような勧善懲悪的な雰囲気もまたあり、したがって話の展開自体は俗っぽい方向へと流れてもいくのだが、その辺りの楽しみ方は人それぞれだろう。私は基本的に話の内容はあくまで舞台設定的な意味合いしかなく、作品の真の楽しみはその最低限の舞台設定の中でどのような言葉が用いられているか、あるいはどのようなテーマが暗に描き出されているかという点にあると思っているため、正直に言うと話の展開そのものは殆どどうだっていい。したがって私はここで話の内容に特段踏み込んで語るのでも、小野さんや藤尾の人物像に分け入るのでもなく、また糸子や小夜のいじらしき姿を語るのでもなく、ただ甲野さんと宗近君の話がしたい。

 

 甲野さんがいなければ私が『虞美人草』をここまで好きになることはなかった、ということは事実である。その透徹した眼差しで他人の心の底を見通し、時に善良を、時に悪意を見出しながら、それらを殊更大仰に取り立てるでもなく無言の底へと打ち棄り、ただその深い洞察の中で悠然と浮き世を見下ろす「立ちん坊」の哲学者、甲野さんとはそういう人物である。成程真に聡明な者ほど物言わなくなるのだろうが、こと小説という形でその人間を見れば、物言わぬというまさにそのことさえ好意に通ずる訳である。甲野さんと宗近君の会話が『虞美人草』で一番好きだ、という読者も少なくないのではないだろうか。再三言っているように、私が『虞美人草』において見出した真価はその文章、表現の巧妙にある。話の展開を重視しないことも既に述べたが、一方で個々の場面というものはやはり「物語」としては無視できないだろう。漱石の文章が知と俗の併存だと言うのなら、その感想にも俗は必要に違いない。そういう訳で、私は敢えてここで甲野さんと宗近君の名を出すのである。宗近君とは甲野さんの友だ。そして甲野さんとは宗近君の友だ。快活で、呑気で、明け透けで陽気な宗近君は甲野さんの友である。甲野さんは物言わない。「宗近の方が小野より母さんを大事にします」、物言ぬ甲野さんは宗近君の友である。

 

「金時計も廃せ」

「うん、廃そう」

 

 多く語るつもりはない。これ以上何かを語ろうとすれば『虞美人草』全てを引用することになる。ただ、私は友情を最も美しい情だと思っている。愛と違って、そこには欲望が混ざらない。技を尽くし、知に支えられた文章が漱石の魅力だ。一方で漱石は知識人としての梯子を降り、大衆に向けて物語を発している。『三四郎』や『虞美人草』ではとりわけ人物間の構図に拘った描写をしている箇所が散見される。それは実に漱石の拘りである。そうして舞台設定に拘ったからこそ、何と言うこともない、ほんの一行、一文が、その表面以上の感慨をもってこちらを揺さぶることがある。

 

この時宗近君の大きな丸い眼から涙がぽたぽたと机の上のレオパルジに落ちた。