隅家

本とか音楽とか

ヘルマン・ヘッセ 『車輪の下』

 初めて読んだヘッセの作品が『車輪の下』だった。ふらりと出かけた古本市でよく聞くタイトルだと目を留めてみると100円の札がつけられていたのだった。たかだか100円で丸一日名作の世界に浸れるのだから本というのは何ともコスパが良い。繰り返し読むこともできる。おまけに教訓もある。比べてこの世で一番コスパが悪いと思うものが服だ。洒落を意識するほどに金がかかり、金をかけて得るものは、より上等なものへの欲求ときている。これだけ際限がないというのに、着れるのはワンシーズンでトレンドは一過性なのだからこれは中々救いがない。以上余談。

 

 本を読み始めてからというもの、忘れないために、これまでに読んだ本とその本に対する個人的評価をメモしておくことにしている。『車輪の下』の横には「優」と一文字添えてある。

 

 「読みごたえ」というものはどこから生じるだろう。密度だろうか。それならたった1日の間の出来事を500ページかけて書けば読みごたえはあるだろうか。それとも10年の出来事を100ページに綴ればよいだろうか。その答えはともかく、『車輪の下』には主として、主人公ハンスの少年期から青年期が文庫本200ページと少しの中で描かれている。神童の素質を携えて生まれたハンスは勉学に色付けられた少年期を過ごし、やがて優秀そのものたる成績をもって神学校に入学する。そこでも当然、勤勉と真面目を発揮するのだが、詩人に憧れる親友ハイルナーの影響も大いにあっただろう、少しずつ教育のレールの上を外れてゆき、終いには学校を去って職人の見習い工としての人生を始めてゆく、、。

 

 「ヘルマン・ヘッセ」と調べてみると、小説家ともう一つ、詩人の肩書きが並べられている。詩人だから、だと思っている。『車輪の下』で描かれる風景には、どこか望郷の心を細い針で痛みなく突き刺すような切なさと美しさ、温かな哀しさが漂っている。同じくヘッセの手になる『デミアン』なんかもそうだが、この『車輪の下』にも光と影が差している。ハンスの光はその幼年時代だ。ハンスは生来的な真面目であったのではないと私は思っている。ただ示されたレールを歩むうちに自ずと真面目を発揮せざるを得なくなっていった。そして不幸なことに素質がそれに応えてしまった。頭痛に悩みながら課業的な勉学をこなすどんよりとした靄の中で、ハンスの目を細めさせる光が幼年期に見た田園風景だ。美しい田舎風土と1つになって我を忘れた色褪せぬ輝き、そこで目にした水の色、風の味。傘を差されたように仄暗く澱んだページに慣れた目に、時折入り込む情感溢れた思い出の描写が柔らかく光る。まるで遠い異国の話なのに、どこかで私たち自身の過去とひっそり手を繋いでいるような気がしてくる。思い出に匂いがする小説には奥行きがある。

 

 タイトルにもなっている「車輪の下」は物語中では神学校の校長がハンスに向けて述べる言葉になっている。

 

 「それじゃ結構だ。疲れきってしまわないようにすることだね。そうでないと車輪の下じきになるからね」

 

 私たちは満たされない。少なくとも私は、いつも車輪の下でもがいている。半ば押し潰された体で絶え絶えに息をしている。悲観的になる人間は、自ら希望を見出す能力のない、停滞した人間だと言う者がある。どこへも行けないのはどこへも行こうと努力していないからだと言う。私の意見はそれとは違う。本当の意味で自分の生と向き合い考え続けた人間は、虚に行き着く。考え続けた人間ほど、そうなる。私は車輪の下でもがいている。いっそ潰して欲しいが、そう思っているからもがくしかない。ハンスも、私も、世の人も、いずれ車輪の下じきだ。

 一般に『車輪の下』という作品がどういう位置付けにあるのか私は知らない。よく人生をレールに喩えたような話を聞くが、「車輪」という単語にはどこかそれと似た部分がある。安い言葉で『車輪の下』を解釈するならハンスはレールに乗った人間だ。周囲から轢かれた教育のレールの上をぎしぎしと歩き続け、しかしある時からそのレールを抜け出そうともがき始める。ハンスが辿る結末はたしかに悲劇だが、その最後にハンスはレールを飛び出ることができたのだ…。そういう話で『車輪の下』を片付けて良いだろうか。定められたコースに跳ね返る精神とか、子どもの自然な精神の発露を歪ませる画一的な教育のあり方とか、そういう教訓を引き出しておけば無難に教科書的だろう。

 私にとって『車輪の下』の本質はそこではない。私がこの作品に魅せられるのはそこに深く沈殿した虚無の気配ゆえだ。車輪の下だろうが下じきだろうがなんだっていい。私たちは車輪の下でもがく。その先に幸あるからもがくのではない。中にはそう信じてもがく者もいるが、同じことだ。各々が何を思っていたところで、そこにあるのはただ各々もがいているというだけの有様だ。皆車輪の下だ。ハンスも、ハンスに言葉をかけた校長も、一足先に神学校を飛び出したハイルナーも車輪の下だ。どうあったって死ぬのだから下じきだろう。この物語に漂う芯だけ凍らせたような翳りに惹かれてしまう。私も、今日まで私と会った人たちも、ただ下じきになるその日まで、いずれ下じきとなることだけを目標に喘いでいる…。ことによると、こんな風に考えるのはあまりに虚無的に思われるだろうか。

 神学校時代、ハンスの同室にヒンディガーという少年がいた。ヒンディガーはある日池に溺れて死ぬ。誰にも気づかれずに暗く冷たく死ぬ。

 私が『車輪の下』に惹かれるのは、そこに生き方とか人生がどうとか、そんな安っぽい教訓を感じて勇気づけられるからではない。ただそこに漂う俯いた息遣いに惹かれる。昏い底をじっと見つめていると、やがて呑み込まれて落ちてゆく。そこは時々、陽なたよりもあたたかい。