隅家

本とか音楽とか

Bill Evans 『Waltz for Debby』

 

 いっとき、目的もなくふらふらとCDショップをぶらつくのが習慣だった。目印に設けられたジャンルの区分だけを頼りにこちらを向いたCDジャケットや特集、そこに添えられた店員さんのひとことを眺めていると、全く知らないアーティストのCDでさえ、不朽の名盤であるような気がしてくるのだった。

 僕はジャズというものをよく知らない。小洒落た音の質感は聴き心地がいいけれど、楽器のことはよく分からないから注意深く聴いていないとどれも同じ一つの曲の延長上にあるように思えてくる。興味はあるけれど「えいや」と手を伸ばす程の気にはならない、情熱は持ち合わせられないけれど、ともすると心の片隅にひっそり住まいを囲っている、そういうものの代表の1つが「ジャズ」であった。

 そういうわけだから、天井にかかったジャンルを示す板をぼんやり目で追っていると、時折「ジャズ」という文字が鮮烈な色合いで訴えかけてくることがある。僕とビル・エヴァンスの出会いはそんなふとした視線の動揺を辿った先で結ばれていたらしい。

 

 名前がかっこいいと思った。ジャズコーナーには他にも2、3のアーティストが特集されていたにもかかわらず僕がビル・エヴァンスに拘ったのは、単に名前の響きに惹かれたからだった。「エヴァンス」というのが何とも良い。同時に肖像が目に入る。特徴的な黒縁眼鏡と几帳面に撫でつけられた髪、一本の煙草。高級バーでも営んでいそうなシックなその雰囲気は、僕にその人物が類い稀ない音楽家であることを期待させるには十分だった。

 

 

 正直特集に何が書かれていたかは覚えていない。確かに読んだ筈だけれど、その時僕の頭の半分は「ビル・エヴァンス」の名を覚えておくことに注がれていた。勿論その場で適当に一枚買ってしまっても良かったのだが、その時は帰りがけにブックオフに寄るつもりだったので、そっちで見かけたら安く買おう、ぐらいの心意気だったのである。(いちおう断っておくと、いつもそういう買い方をする訳ではない。むしろ買い物は衝動的にする質だし、この時はやはり「ジャズ」という未知の分野への尻込みがあったのだろう。)

 

 こうした若干の曲折を経て帰りに寄ったブックオフで見つけたのが、『Waltz for Debby』だったわけである。見たいものは色々とあったから、そのついでと言わんばかりにジャズコーナーをちらと見ると、覚えたての「ビル・エヴァンス」の札の隣にこのCDが一枚だけ置かれていた。その時の僕は当然知る由もないが、『Waltz for Debby』と言えばビル・エヴァンスのみならず、モダンジャズ全体から見ても初めに名前が挙がるほどの言わば超名盤であったらしい。今でも僕とビル・エヴァンスの出会いの一枚がこの一枚であったことを嬉しく思う。(のちに当時好んで読んでいた村上春樹の小説の中で同じくビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビー』が出てきた時には二度嬉しかった。)

 

 僕にとって初めてのジャズということで、帰って早速相棒のウォークマンに取り込んでしばしその世界に身を沈めてみると、これがまた大変な名盤でつくづくその出会いに感謝した。僕が買ったのはどうやらライヴ盤だったようで(というかライヴ盤しかないのかもしれないが)、どこかの店で演奏されていたのだろうか、徐に一曲目の『My Foolish Heart』が始まると同時、足音や食器のガチャつき、誰かの咳払い、身をかがめて底を支えるような話し声のざわめき、それらが一緒くたに小さな波を打って広がっていった。本来ならそれは雑音とも称されるのかもしれない。僕だって自分が持っているCDの全てに話し声や食器の音が入っていたら当然嫌だ。しかしその時は店内のざわめきを全く雑音だなんていう風には思わなかった。それどころかそのざわめきによって完成されているとさえ思ったのだった。僕は今もこの小さなざわめきたちを好んで聴く。そしてそれはたぶん、この先もずっとそうだろう。微かなざわめきがあるからこそ一層、静けさのある音なのだった。騒音の中から旋律を探すのではない。むしろ旋律の端の消え入りそうな息遣いを探してそこに身を落ち着けるのだ。

 特に好きなのが、一曲目の『My Foolish Heart』が終わり、次の『Waltz for Debby』が始まる部分。『My Foolish Heart』に対する拍手が徐々に大きくなり再びまばらに散ってゆく、そのまばらな手拍子の最後の一回が終わるか終わらないかの内に『Waltz for Debby』の最初の一音が鋭く響く。鋭く、といっても切り裂くような尖った音ではない。むしろ柔らかく、しかし恥じらうわけではなくはっきりと、とても自然に音が鳴る。その余韻に浸る間もなく次の一音が鳴っている。気づくと僕は『Waltz for Debby』の中にいる。ビル・エヴァンスの演奏の中に。「ジャズ」の中に…。

 

 何年経っても変わりなく僕にとっての名盤だろうという予感がある。以来すっかりビル・エヴァンスの虜になってしまって、今ではCDの数も8枚に増えた。『Waltz for Debby』は言わずもがな、『Alone』や『I Will Say Goodbye』あたりが僕のお気に入りだ。もちろん『Portrait In Jazz』や『Sunday At The Village Vanguard』も捨てがたい。

 「ジャズ」はと言うと、実は未だに詳しくないままだ。相変わらず僕の中で「ジャズ」は姿大半をヴェールに包んだまま、時たま思い出したようにその衣をずらして誘惑してくる。変わったことと言えば、そのとき僕の目に訴えかけてくる名前が一つ増えたぐらいだ。