隅家

本とか音楽とか

安部公房 『砂の女』


 友人からの強い勧めがあってつい最近、安部公房の『砂の女』を読んだ。人から物を勧められるということがどうにも苦手な性分なのだが、こと本に関しては普段は締め切られている窓にも僅かな隙間が生まれるらしい。物語そのものへの興味というよりは、それを好む人間性への好奇なのだろう。

 

 「読みやすさ」ということが強い賞賛の意味で用いられている場面をあまり目にしたことがない。「易さ」にはどうしても「平易」のニュアンスが含まれる。ところで、わざわざ文学などと「学」の字を貼り付けた分野の中では「平易」は真っ先にその窪みの淵へと追いやられるもの一つだ。

 しかし如何に難解な文章を孕んでいようと、名作と評される作品にはある種の「読みやすさ」が膜を張っている。それは語彙と構成の美麗に依ることもあれば、物語そのものへの没頭に依ることもある。あるいは散りばめられた知識の上質に依ることもある。ともすれば雑談めいた調子で時おり行間に顔を出す知識への感心が、紙上でぼやけかけた焦点をつと引き戻す。不規則に練り込まれた知の残滓が物語への注意の糸を簡単には断ち切らせない。そうして少しするとまたページが進んでいる。中にはそういう「読みやすさ」もある。

 『砂の女』を読んで初めに驚かされたのがこうした知の満足の多さだ。それは概要としての教養ではなく、環境から摂取し続けたのであろう学識の豊満を示している。

 

 例えばだが、私は小説にも文理の別があるように思う。つまり文系的な小説と理系的な小説があると思っている。前者が精緻な心理描写や鋭角な観察に支えられて共感や味わいを増幅させていく一方、後者は知識の掲示や発見、想像の自由によって好奇と面白さを誘う。無論両者が綺麗に線引きされているわけではい。その境界は太く、そこでは常に両者が重なり、混じり合い、一方は常に他方への延長の可能性を潜ませている。

 私が「学識の豊満」という言葉で意味したいのは概ねこの「理系的」な領域に含まれる面白さのことだ。『砂の女』に主題として描かれる内容はもっぱら人生的なものであるが、それはそれとして散りばめられた知識の潤沢には「読みやすさ」へと通ずる面白さがある。

 

 安部公房という人物は東京大学医学部を卒業した作家であるらしい。今作のほか、『他人の顔』や『笑う月』などの作品は何度か古本屋で見かけたことがあり、その粗筋もぼんやりと知っていたため、初めどことなく精神分析学的な気風を印象として抱いていた。その印象は一応は遠からず、といったところであったようで、『砂の女』では冒頭からエディプス・コンプレックスのような聞き馴染みのある単語が、昆虫収集癖と精神的欠陥との関連性の語りの中で登場している。しかしあくまでそれは幅を持った知識の断片に過ぎなかったらしく、もう少しページを進めれば鞘翅目に関する幾つかの事実が語られ、それを皮切りに「砂」の物質的定義とその直径の均一性に関する流体力学の観点からの解説、さらには砂の流動性に対する主人公の哲学が生き生きと続けられる。それも僅か文庫本15ページ弱の間にである。過度に専門的でない言葉によって、私たちの興味を惹きつける内容が最も興味を惹きつけやすい平易さでもって挟み込まれる。

 冒頭のみならず『砂の女』全体についてこれと同じことが言える。擬死体発作、紙の家、結核患者の色情狂、蛾の趨向性…。枕詞のように何気なく挟まれるものだから、逆にそれが付け焼き刃の知識ではないのだと伺えてしまう。記事冒頭に書いたような知識の面白さが次の行を自然と追わせてゆく。それは単なる文才だけでは踏み込めない領域に属するものだ。

 

 ここまで長々と書いたが、これらはあくまで『砂の女』の表面的な面白さ留まっているように思う。文学として見るならやはりその文体や独特の言葉遣い、比喩表現は無視できないものである。また、内容としてもそこで描き出されている生の不完全は、その描き出され方がメタ的視点の中で機械的、純粋模写的に見えてくるだけに一層核心に迫っている。

 表現、ということに関して言うなら、正直その半分の意図すら正しく了解できた自信はない。度々思い出したように登場する「青酸カリ」がそれぞれの場面で何を暗示しているのだろうかとか、なるほど精神分析らしく登場する夢の内容は前後場面との表面的な繋がりだけで解釈して十分なのだろうかとか、そういった事柄一つ一つに深入りしてゆくには読みの量も深さも到底今回の読書では足りていない。また、その文体も独特だ。時おりコマが飛んだフィルムのように脈絡なく情景が切り替わる箇所がある。直前に描かれた景色のニュアンスを唐突に限定的な描写に置き換えているよう思われる部分もあれば、思考の中で論理を追い越して結論が直覚されたり、鮮烈な印象がはじめに飛び込んできて、後からその理屈が秩序づけられるときの順序の転換のようなものを何か表現しているように思える部分もある。しかし、実際にそこで用いられている単語の関係性には相応の深さがあるのではないか。脈絡なく思える単語の組み合わせにも、先述したような知識の豊潤を以てすれば明確な糸を見ることができるのかもしれない。

 

 内容、ということに関してなら、知識の観点のみからすれば、太刀打ちするために必要な量がいくらか減る分とっつきやすいかもしれない。主人公の男は、人間の無力と鬱蒼たる世の淡白を諦観混じりに受け入れている人物だ。理不尽な部落の監禁には腹を立てるが、一方で逃げ帰る先の日常にやりがいを感じている訳ではない。「灰色の種属」という表現が妙に印象に残っている。彼らは他人が灰色以外の色をしているとたまらない自己嫌悪に陥るのだと言う。私たちは基本的に傷つける機会を探し合っている生き物だ。そのことに無自覚たる醜悪もたまにある。他人が欲しがるものになろうとして互いに着飾り合う。本当は裸であると、自分だけは必ず分かる透明な衣服でどこまでも着飾り合う。相手に裸を見透かされることを恐れ、相手の錯覚を確かめるためだけに必要以上に見せびらかす。この不毛な輪廻を終わらせるのは本来受ける道理もない屈辱の従順な甘受のみだ。ひとたびそれをやめてしまえばまた輪の中へ戻るしかない。呆れた従順を延々と繰り返すか、虚しい誇張を互いに見せ続けるしかない。

 『砂の女』では、主人公はとうとう日常の中に住処を見つけることができなかった。部落から逃げ出す絶好の機会の只中にいながら、男は自ら穴の中へと帰る。穴の底で動いた影の先に、溜水装置がなかったとしたら、男は穴に戻らずに済んだだろうか。男は見るべくして見ている。影の先に装置があったのは、偶然ではない。何より、砂穴からの脱走ははじめから手段ではないのだ。逃げた先の日常に意味が見出せないのなら何のための脱走だろう。失踪からの7年、その大半は物語の中では語られていない。しかしおそらくその7年の間、男は部落に留まり続けたのだろうと十分に予感させるものがある。

 男の辿る結末が幸か不幸かとか、男なりの納得とか、そういう話を始めたのではあまりに安い。少なくとも男は満たされていない。部落に留まり続けただろうと書いたが、その7年間が男を満足させるものであったとは到底思えない。休暇を謎めかせたときの男の満ち足らなさは7年間男と共にあり続けただろう。あるいは男は、あの不合理な従順の重しをぶら下げるくらいにはなったかもしれないが、それにしたって同じことだ。男は砂の流動に魅せられる。単に留まらない姿に惹かれたわけではないと思う。留まらない存在であり続けたところで、何一つ満たされないことを男は直感している。男が本当に惹かれたのは、ただその流動の無為たるがゆえではないだろうか。絶対無的な境界の消失、涅槃的とさえ言える「ただの」漂流、意味からニュアンスを限りなく剥奪し続けた先の自己の現象化、砂の流動はそれらの象徴であったのではないか。男は「どこか」を求め続けている。「どこか」は「ここ」ではないことだけは分かっている。「どこか」がどこであるのかは分からない。どこまで行っても「どこか」であり続ける。だからどこまで行っても満ち足りることはないのだと知っている。基本姿勢としての不完全。私たちと、世界と、どこが違うだろう。『砂の女』は何も得意顔になってその不完全を暴き出しているわけではない。そんな程度のことは超越した先で、ただ機械的に、鏡面的に、そういうものとしての世界をそういうものたる世界として写している。如何に慎重に言葉を選んでも、テーゼ化した瞬間に価値が失われてしまうからこそいっそう純粋写実的に、生の不完全の投影が行われている。

 

 世界に対する努力という点にかけて、男はおよそ脱力的だ。「どこか」の不在を知って、その不在に対する絶望とか悲観とか諦観とか、そういうものを排した先で、ただ現象的に流動する砂の在り方に魅せられる。男は砂にはなれなかったが、与えられたまま、与えられたままに呼吸するという適解へと至る。そこに幸とか不幸の観念はない。それゆえに「男なりの」など語るのは些か浅い。俯いた受動、溜息の呼吸、男は砂になりたい。『砂の女』は同時に『砂の男』でもある。しかし、あの「砂の女」こそ、男が本当に憧れた姿なのだ。考える回路も、能力もない。留まる理由もないのに砂穴の家に暮らし続け、「愛郷精神」を鵜呑みにしながら鵜呑みにしていることを自覚することすらできない。それは男にとって甚だ理解不能であるが、そもそも「解する」ことが必要ない程度の思考しか、「考」の字を使うことすら憚られるような程度の思考しか女は持たない。「砂の女」はラジオと鏡しか持たない。女はまさしく砂なのだ。男はどうやっても砂にはなれない。それを知る私も、砂にはなれない。