隅家

本とか音楽とか

Bill Evans 『Waltz for Debby』

 

 いっとき、目的もなくふらふらとCDショップをぶらつくのが習慣だった。目印に設けられたジャンルの区分だけを頼りにこちらを向いたCDジャケットや特集、そこに添えられた店員さんのひとことを眺めていると、全く知らないアーティストのCDでさえ、不朽の名盤であるような気がしてくるのだった。

 僕はジャズというものをよく知らない。小洒落た音の質感は聴き心地がいいけれど、楽器のことはよく分からないから注意深く聴いていないとどれも同じ一つの曲の延長上にあるように思えてくる。興味はあるけれど「えいや」と手を伸ばす程の気にはならない、情熱は持ち合わせられないけれど、ともすると心の片隅にひっそり住まいを囲っている、そういうものの代表の1つが「ジャズ」であった。

 そういうわけだから、天井にかかったジャンルを示す板をぼんやり目で追っていると、時折「ジャズ」という文字が鮮烈な色合いで訴えかけてくることがある。僕とビル・エヴァンスの出会いはそんなふとした視線の動揺を辿った先で結ばれていたらしい。

 

 名前がかっこいいと思った。ジャズコーナーには他にも2、3のアーティストが特集されていたにもかかわらず僕がビル・エヴァンスに拘ったのは、単に名前の響きに惹かれたからだった。「エヴァンス」というのが何とも良い。同時に肖像が目に入る。特徴的な黒縁眼鏡と几帳面に撫でつけられた髪、一本の煙草。高級バーでも営んでいそうなシックなその雰囲気は、僕にその人物が類い稀ない音楽家であることを期待させるには十分だった。

 

 

 正直特集に何が書かれていたかは覚えていない。確かに読んだ筈だけれど、その時僕の頭の半分は「ビル・エヴァンス」の名を覚えておくことに注がれていた。勿論その場で適当に一枚買ってしまっても良かったのだが、その時は帰りがけにブックオフに寄るつもりだったので、そっちで見かけたら安く買おう、ぐらいの心意気だったのである。(いちおう断っておくと、いつもそういう買い方をする訳ではない。むしろ買い物は衝動的にする質だし、この時はやはり「ジャズ」という未知の分野への尻込みがあったのだろう。)

 

 こうした若干の曲折を経て帰りに寄ったブックオフで見つけたのが、『Waltz for Debby』だったわけである。見たいものは色々とあったから、そのついでと言わんばかりにジャズコーナーをちらと見ると、覚えたての「ビル・エヴァンス」の札の隣にこのCDが一枚だけ置かれていた。その時の僕は当然知る由もないが、『Waltz for Debby』と言えばビル・エヴァンスのみならず、モダンジャズ全体から見ても初めに名前が挙がるほどの言わば超名盤であったらしい。今でも僕とビル・エヴァンスの出会いの一枚がこの一枚であったことを嬉しく思う。(のちに当時好んで読んでいた村上春樹の小説の中で同じくビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビー』が出てきた時には二度嬉しかった。)

 

 僕にとって初めてのジャズということで、帰って早速相棒のウォークマンに取り込んでしばしその世界に身を沈めてみると、これがまた大変な名盤でつくづくその出会いに感謝した。僕が買ったのはどうやらライヴ盤だったようで(というかライヴ盤しかないのかもしれないが)、どこかの店で演奏されていたのだろうか、徐に一曲目の『My Foolish Heart』が始まると同時、足音や食器のガチャつき、誰かの咳払い、身をかがめて底を支えるような話し声のざわめき、それらが一緒くたに小さな波を打って広がっていった。本来ならそれは雑音とも称されるのかもしれない。僕だって自分が持っているCDの全てに話し声や食器の音が入っていたら当然嫌だ。しかしその時は店内のざわめきを全く雑音だなんていう風には思わなかった。それどころかそのざわめきによって完成されているとさえ思ったのだった。僕は今もこの小さなざわめきたちを好んで聴く。そしてそれはたぶん、この先もずっとそうだろう。微かなざわめきがあるからこそ一層、静けさのある音なのだった。騒音の中から旋律を探すのではない。むしろ旋律の端の消え入りそうな息遣いを探してそこに身を落ち着けるのだ。

 特に好きなのが、一曲目の『My Foolish Heart』が終わり、次の『Waltz for Debby』が始まる部分。『My Foolish Heart』に対する拍手が徐々に大きくなり再びまばらに散ってゆく、そのまばらな手拍子の最後の一回が終わるか終わらないかの内に『Waltz for Debby』の最初の一音が鋭く響く。鋭く、といっても切り裂くような尖った音ではない。むしろ柔らかく、しかし恥じらうわけではなくはっきりと、とても自然に音が鳴る。その余韻に浸る間もなく次の一音が鳴っている。気づくと僕は『Waltz for Debby』の中にいる。ビル・エヴァンスの演奏の中に。「ジャズ」の中に…。

 

 何年経っても変わりなく僕にとっての名盤だろうという予感がある。以来すっかりビル・エヴァンスの虜になってしまって、今ではCDの数も8枚に増えた。『Waltz for Debby』は言わずもがな、『Alone』や『I Will Say Goodbye』あたりが僕のお気に入りだ。もちろん『Portrait In Jazz』や『Sunday At The Village Vanguard』も捨てがたい。

 「ジャズ」はと言うと、実は未だに詳しくないままだ。相変わらず僕の中で「ジャズ」は姿大半をヴェールに包んだまま、時たま思い出したようにその衣をずらして誘惑してくる。変わったことと言えば、そのとき僕の目に訴えかけてくる名前が一つ増えたぐらいだ。

ヘルマン・ヘッセ 『車輪の下』

 初めて読んだヘッセの作品が『車輪の下』だった。ふらりと出かけた古本市でよく聞くタイトルだと目を留めてみると100円の札がつけられていたのだった。たかだか100円で丸一日名作の世界に浸れるのだから本というのは何ともコスパが良い。繰り返し読むこともできる。おまけに教訓もある。比べてこの世で一番コスパが悪いと思うものが服だ。洒落を意識するほどに金がかかり、金をかけて得るものは、より上等なものへの欲求ときている。これだけ際限がないというのに、着れるのはワンシーズンでトレンドは一過性なのだからこれは中々救いがない。以上余談。

 

 本を読み始めてからというもの、忘れないために、これまでに読んだ本とその本に対する個人的評価をメモしておくことにしている。『車輪の下』の横には「優」と一文字添えてある。

 

 「読みごたえ」というものはどこから生じるだろう。密度だろうか。それならたった1日の間の出来事を500ページかけて書けば読みごたえはあるだろうか。それとも10年の出来事を100ページに綴ればよいだろうか。その答えはともかく、『車輪の下』には主として、主人公ハンスの少年期から青年期が文庫本200ページと少しの中で描かれている。神童の素質を携えて生まれたハンスは勉学に色付けられた少年期を過ごし、やがて優秀そのものたる成績をもって神学校に入学する。そこでも当然、勤勉と真面目を発揮するのだが、詩人に憧れる親友ハイルナーの影響も大いにあっただろう、少しずつ教育のレールの上を外れてゆき、終いには学校を去って職人の見習い工としての人生を始めてゆく、、。

 

 「ヘルマン・ヘッセ」と調べてみると、小説家ともう一つ、詩人の肩書きが並べられている。詩人だから、だと思っている。『車輪の下』で描かれる風景には、どこか望郷の心を細い針で痛みなく突き刺すような切なさと美しさ、温かな哀しさが漂っている。同じくヘッセの手になる『デミアン』なんかもそうだが、この『車輪の下』にも光と影が差している。ハンスの光はその幼年時代だ。ハンスは生来的な真面目であったのではないと私は思っている。ただ示されたレールを歩むうちに自ずと真面目を発揮せざるを得なくなっていった。そして不幸なことに素質がそれに応えてしまった。頭痛に悩みながら課業的な勉学をこなすどんよりとした靄の中で、ハンスの目を細めさせる光が幼年期に見た田園風景だ。美しい田舎風土と1つになって我を忘れた色褪せぬ輝き、そこで目にした水の色、風の味。傘を差されたように仄暗く澱んだページに慣れた目に、時折入り込む情感溢れた思い出の描写が柔らかく光る。まるで遠い異国の話なのに、どこかで私たち自身の過去とひっそり手を繋いでいるような気がしてくる。思い出に匂いがする小説には奥行きがある。

 

 タイトルにもなっている「車輪の下」は物語中では神学校の校長がハンスに向けて述べる言葉になっている。

 

 「それじゃ結構だ。疲れきってしまわないようにすることだね。そうでないと車輪の下じきになるからね」

 

 私たちは満たされない。少なくとも私は、いつも車輪の下でもがいている。半ば押し潰された体で絶え絶えに息をしている。悲観的になる人間は、自ら希望を見出す能力のない、停滞した人間だと言う者がある。どこへも行けないのはどこへも行こうと努力していないからだと言う。私の意見はそれとは違う。本当の意味で自分の生と向き合い考え続けた人間は、虚に行き着く。考え続けた人間ほど、そうなる。私は車輪の下でもがいている。いっそ潰して欲しいが、そう思っているからもがくしかない。ハンスも、私も、世の人も、いずれ車輪の下じきだ。

 一般に『車輪の下』という作品がどういう位置付けにあるのか私は知らない。よく人生をレールに喩えたような話を聞くが、「車輪」という単語にはどこかそれと似た部分がある。安い言葉で『車輪の下』を解釈するならハンスはレールに乗った人間だ。周囲から轢かれた教育のレールの上をぎしぎしと歩き続け、しかしある時からそのレールを抜け出そうともがき始める。ハンスが辿る結末はたしかに悲劇だが、その最後にハンスはレールを飛び出ることができたのだ…。そういう話で『車輪の下』を片付けて良いだろうか。定められたコースに跳ね返る精神とか、子どもの自然な精神の発露を歪ませる画一的な教育のあり方とか、そういう教訓を引き出しておけば無難に教科書的だろう。

 私にとって『車輪の下』の本質はそこではない。私がこの作品に魅せられるのはそこに深く沈殿した虚無の気配ゆえだ。車輪の下だろうが下じきだろうがなんだっていい。私たちは車輪の下でもがく。その先に幸あるからもがくのではない。中にはそう信じてもがく者もいるが、同じことだ。各々が何を思っていたところで、そこにあるのはただ各々もがいているというだけの有様だ。皆車輪の下だ。ハンスも、ハンスに言葉をかけた校長も、一足先に神学校を飛び出したハイルナーも車輪の下だ。どうあったって死ぬのだから下じきだろう。この物語に漂う芯だけ凍らせたような翳りに惹かれてしまう。私も、今日まで私と会った人たちも、ただ下じきになるその日まで、いずれ下じきとなることだけを目標に喘いでいる…。ことによると、こんな風に考えるのはあまりに虚無的に思われるだろうか。

 神学校時代、ハンスの同室にヒンディガーという少年がいた。ヒンディガーはある日池に溺れて死ぬ。誰にも気づかれずに暗く冷たく死ぬ。

 私が『車輪の下』に惹かれるのは、そこに生き方とか人生がどうとか、そんな安っぽい教訓を感じて勇気づけられるからではない。ただそこに漂う俯いた息遣いに惹かれる。昏い底をじっと見つめていると、やがて呑み込まれて落ちてゆく。そこは時々、陽なたよりもあたたかい。

 

Crosby, Stills, Nash &Young 『Déjà vu』

 ふとしたきっかけでCrosby, Stills, Nash &Youngの『Our House』を聴いた。前に僕の知人が「音楽を聴いているとき神の存在を認めざるを得ない瞬間がある」と言っていたが、僕にとって『Our House』はまさに神様に触れる一曲だったらしい。

 別日タワーレコードに寄ってみるとこのアルバムがあったものだからすぐに購入してしまった。アルバムというのはやはりいい。ベスト盤はともかく、アーティストが自ら順番を決めて曲を配列したアルバムにはそれ相応の意味がある。アルバムは一つの物語だ。全然知らないアーティストでもアルバムを1つ上から順に聴いていけばそれだけでその人の世界に浸ることができる。

 そんなわけで帰って早々、相棒のウォークマンに『Déjà vu』を取り込み、順に聴いてみたのだったのだが、これがまたとんでもない名盤でびっくりした。特に気に入っているのは2曲目の『Teach Your Children』と4曲目の『Helpless』、それから言わずもがな7曲目の『Our House』。何と言えばいいのか分からないのだが、どうも僕は「柔らかな月日の流れ、あるいは終わり」といった観念を連想させる曲に弱い。心地よく流されてゆったりと自分が曲と一つになるような感覚がたまらない。ビリージョエルの『Piano Man』とかビートルズの『In My Life』とか、とにかくああいう曲が好きならしい。『Helpless』や『Our House』もまさにそういった曲の一つのようで、いつ、何度聴いても本当に素晴らしい。

 意外なほどハマってしまっているのが『Helpless』。少し調べてみるとニール・ヤングの名前に突き当たり、後日ブックオフで『Harvest』と『Unplugged』のアルバムも買ってしまった。こちらもまたすごくいい。

 

There is a town in north Ontario,
With dream comfort memory to spare,
And in my mind
I still need a place to go,
All my changes were there.

Blue, blue windows behind the stars,
Yellow moon on the rise,
Big birds flying across the sky,
Throwing shadows on our eyes.
Leave us

Helpless, helpless, helpless
Baby can you hear me now?
The chains are locked
and tied across the door,
Baby, sing with me somehow.

Blue, blue windows behind the stars,
Yellow moon on the rise,
Big birds flying across the sky,
Throwing shadows on our eyes.
Leave us

Helpless, helpless, helpless.

 

 正直海外の音楽を聴くときに歌詞なんて意識しない。向こう特有の言い回しなんて分からないし、そもそも何と言っているのかなんて半分以上分からない。こうやって文字に起こしてみれば分かるけれども聴いているときに聴こえてこないなら無いようなものだ。それでもサビで繰り返し歌われる「ヘルプレス」の言葉は絶対に聞こえてくる。この一つの単語に日本語でどんな訳をつければ作者の意に沿うようなニュアンスになるのかなんて到底分からない。そもそもメロディの制約がある中で選ばれた単語を違う言語に置き換えようとするなんてナンセンスだ。Helplessの意味はHelplessでしかないしそれで十分だと思う。

 でもそれはそれとして意味は付けたくなる。間違っていようと僕にとって価値がある意味なら何だっていいと思って勝手にこの曲を解釈して楽しんでいる。そういえばカズオ・イシグロの『私を離さないで』にも似たような話があった。『Never let me go』という曲に出てくる「恋人」を意味する「ベイビー」を、主人公は「赤ん坊」のことだと思うのだ。何かおかしいとは気づいているのだけど、そんなことは気にせずに主人公はこの曲を母親と赤ちゃんの曲なのだと自分の中で決める。母親が赤子を抱いて、ベイビー、私を離さないでと歌っている……。たしかそんなような話。

 僕はと言うと『Helpless』は慰めてくれる歌だと思ってる。サビに入ると「ヘルプレス」と繰り返し聞こえてくる。僕は「どうしようもないさ」と言われているような気になる。諦めてるとか悲観的になってるとかじゃなくて、色んな嫌な事とか、落ち込んでる事とか、そういうの全部を「どうすることだってできなかったさ」と優しく慰められてるような気になってくる。何となく呼吸一回分ゆっくりになるような心地で、僕は「そうだねぇ」と思いながら慰められてる。リーブアス、ヘルプレス、ヘルプレス、へーールプレス、、、

カミュ『異邦人』

 初めて読んだカミュの作品が『異邦人』だった。あらすじを読んだ段階では気狂いじみた人間が主人公の風変わりな話で、フィクション、娯楽として完成された読み物なのだろうと勝手に考えていた。ところがいざ読んでみると遠い世界の話のようで中々共感をそそるような感触がある。それも安っぽい共感ではなく、痒い所に手が届くような共感だ。そういうわけだから『異邦人』は私にとってお気に入りの一冊になっている。

 

 海外作家の作品を読むとき、いつも自分は十分に作品を味わえているのだろうかという疑念が付き纏う。疑念というよりむしろ、十分に味わい切れていないだろうという確信に近い。名作は何ヶ国語でも生まれているというのに自分に馴染みのある外国語は英語ぐらいのものでそれにしたって文学の冠がついた本を読むにはべらぼうな時間と頭痛が必要になる。仮に原文で読めたとしても母国語が日本語なのだからどうしたって一度日本語のものとして咀嚼する作業が入り込んでしまう。それなら初めから一流の翻訳家の手になる訳本を取っておけば十二分ということになるが、しかし訳された言葉によって本来の文が持つ味わいを同じように味わえる筈がない。そういうわけで海外の本には常に推測が付き纏う。元来物語の内容と同等以上に書かれ方や文体を楽しみたく思っている自分にとってこれほどの障害はない。しかし文体を気にしたいのはこれは性分であるから、原文に触れず訳本のみに頼っている身でありながら文体も含めて思うところは書いてしまいたい。

 これは後になって知ったことなのだが、カミュの文体は誠実と評されることがあるようだ。誠実、という言葉が具体的に何を意味しているのかは知らないが、実際ある種の真面目さみたいなものはあるように思う。訳であるからして推測するしかないのだが、のちに『ペスト』を読んだときに、「元の文章はたぶん関係詞が多いのだろうな」と感じることが多々あった。「〜の、〜するところの〇〇が〜」といった具合に一つの名詞が様々に修飾されている箇所が散見される。これはおそらく『異邦人』についても同じようなもので、日本語は後ろから修飾するということがないわけだからやはり普段読む本のようにスムーズに内容は入ってきてくれない。しかし日本語としての文の構成に難解が生じるということは元の文章ではそれだけ長さと堅さが格式の中に収まっていたということなのかもしれない。その言語感覚を知識的にも生得的にも十分に見定められないことは重ねて惜しいが、誠実さなるものがカミュの文章にあるというならこのあたりの感慨の由来がそれだろう。以下内容。

 

 「どうせ伝わりやしないだろうな」という感覚が往々にしてある。自分なりの信念と道理に基づいて最善を選んでいるつもりでも、傍から見るとそれが全く自然でないことがある。それが咎められるものだからこちらも「それなら」というつもりで持論を言って聞かせるのだが、自らの物差しを一番信頼している人間というのは質が悪いもので、こちらが整然と説こうとするほどにあちらには躍起になっているように映ってしまう。引き下がった振りだけして心中で「斜に構えた人間」のレッテルをこちらに貼り付けてくる者もあれば、あからさまにこちらを子供に見立ててあしらおうとする輩もいる。深追いするのは全く愚策であって、理屈で言い負かそうとしたところで、向こうは益々躍起になっていると見て物差しを固めるか、「はいはい」と取り合わず、真剣な吟味でもって自分の理論と戦わせることをはなから選択肢の外に置くかが関の山だ。しかし追わなかったところで相変わらず「理論の通っていないこども」のレッテルは勝手に貼られるのだからこれほど損なことはない。全く、他者理解に欠けていながらそれに無自覚であるのは中々醜悪だ。

 長々と持論を書いたのは、詰まるところ私の思う『異邦人』がこういう話だからだ。少なくとも私は「どうせ伝わりやしない」の諦めと呆れ、そしてそれゆえの無感動と無関心をこの話から感じ取った。主人公のムルソーが為すことは常軌を逸している。しかしそこには常にムルソーなりの理屈がある。もし『異邦人』の主人公が別の人間であったら単に物語の方向性という意味でなく、作品の質感自体が全然異なるものになっていただろう。私たち読者はムルソーの中に入ってその心理を知るからこそ、そこに一先ずの理屈があることを知る。しかしまるで関係ない誰かが観測者となって『異邦人』を眺めるのであれば、ムルソーはただの異常者でしかない。それが恐ろしくもある。ムルソーにはムルソーの理屈があるが、その理屈同士の関係としての論理ではなく、理屈を構成している心理作用としての論理自体が人と異なっているから誰もムルソーの理屈が分からない。分からないでただ異常者の烙印を押す。しかし人々は自分が「分かっていない」状態にいることを自覚していない。自分の物差しに照らし合わせておかしいのは相手だと決めつける。たまたまその物差しが多数派と一致していたからムルソーが異常者なのだと思い込む。そしてムルソーは真意が、というより自身の心理作用が厳密に、正しく伝わっていないことを内心に知っている。その歯痒さの表現として『異邦人』を見ればやはりそこにはよく言われる「不条理の哲学」が良く現れているのかもしれない。

 『異邦人』に物語として深みを与えているのはムルソーの実直さにあるように思う。ムルソーは自身の理屈が「どうせ伝わらない」ことを知りながら、というか知っているからこそ、どのような理屈であれば伝わるのかも自ずと気づいている。多少の偽善を取り繕うだけでムルソーは死刑を免れることはできたのに敢えてそれをしないで「どうせ伝わらない」心理を淡々と述べる。しかも伝えようと言葉を尽くして努力するわけでもない。そのムルソーの態度に私は超然の何かを感じる。他者理解に心底欠けた大衆への絶望とそれ以上の蔑み、あるいは嘲笑。どうせ自分の言う事を理解しないであろう他人をどこか見下し憐れみ、「はいはい」とでもいうような調子で呆れたように伝わらない言葉を述べる。しかしそのあり方は実直そのものだ。場を支配しているルールを正しく理解する洞察を持ち合わせていながらその下らないルールに敢えて乗じようとせず、ある種の正直を貫く。私の共感をそそるのはその態度だ。

夏目漱石『こころ』

 最近になって漸く『こころ』を真剣に読んだ。漱石と言えば真っ先に名前の浮かぶ文豪の一人で、とりわけ『こころ』や『坊っちゃん』は現代文の教科書に一部抜粋が載せられる程だから知らぬ人は少ないだろう。これは漱石に限った話ではないが、思うに、文学に特別の興味を抱いているわけでもない青少年に対して、教育の一環として古典的名作のわずか一部分を読ませるのは馬鹿げている。受け身で頭を通り抜ける文章と無理矢理流し込まれる紋切型の解釈のどこに価値があるのだろう。往々にして、ものの真価は発見される。価値は宿るものではなく宿すものだとすれば、自発的に見いだす意志のないところに真価は備わらないだろう。そういうわけだから、文章なんてものは読みたいと思った人間がそう思ったときに勝手に読めばいい。以上余談。

 

 ”神経質な自信家”という印象を漱石に抱いている。先に断っておくと私は漱石の文体が好きだ。無難、という表現がふさわしい。漱石の文は抒情を孕んだ文学的に味わい深い表現、しいて言うなら詩的性質を帯びた文章ではない。その文体は詩的、というよりむしろ明晰に近い。しかしそれでいて細部にこだわりを見せる緻密な描写を多用するわけでもない。最低限の表現で明晰に、だから漱石の文は読みやすい。読みやすく、大衆を惹きつける。大衆に向けて発せられている点は特徴の一つだろう、雑誌掲載時代の工夫だろうか。内省的なテーマというよりは大衆ウケに寄っている。大衆的な”面白さ”と”読みやすさ”、しかしそこに知性と教養は隠されきっていない。これらが漱石の文章を作っている。必要なことを最低限、必要とあらば文に意匠も凝らしてみせる。漱石の文は繊細だが自信に満ちている。その力量は読みやすさとしてこちらに伝わる。

 

 第一に苦悩、第二に死の観念。こんにち「死にたい」など言おうものならネガティブな人間、自分の人生を自ら楽しむこともできない面白味に欠けた人間、口だけ、メンヘラ、鬱病気取りと何を言われたか分かったものじゃない。自分の生死と向き合わない人間よりは世を倦んで厭んで口だけでも死にたがってる人間の方が私はよっぽど好きだ。生に希望を見いだしている人よりもそれができない人間の方が人間らしい。「死にたい」を煙たがる人間の方がずっとくだらない。私が物語に苦悩と死を求めるのはこういうわけだ。以下本題。

 

 『こころ』は二つの自殺から成っている。一つは先生、一つはK。発端は同じでもその内実はまるで違う。Kは自らの信念と行動(あるいは感情)の矛盾に苦しみ、先生は自らの卑怯な—前半で描かれる先生と後半の遺書を読めば、ただ否定的なニュアンスだけでもって先生を「卑怯」と称したくはない。だがここでは先生の立場に依ったうえで敢えてそうしている—恋の顛末としてKを死に至らしめたことに苦しみ続け、ついぞその命を絶つ。

 

 先生は自らの言葉と態度が原因でKを自殺させてしまったことを生涯悔い続けた。言葉、態度、というより根本は心持だろう。常に付きまとう人間への疑心がそうさせた、欲を持ちながら疑心を捨てきれず進み出せなかった結果としてKとお嬢さんが恋仲になることを恐れるまでに至ったというのに、一方で先生はお嬢さんをKに奪われることを完全な自分の非として諦めることはできなかった。煮え切らぬ自らの態度が招いた結末を受け入れずに搦手をとり欲がKを殺したことを悔いていた。先生の話は後でいい。「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」、この言葉の代わりにKが自らの恋路を進みぬいてよいと思えるだけの尤もらしい理由を与えて、大手を振ってKを応援してやっていたらKは死ななかったか。お嬢さんの件ではたぶん死なずに済んだろう。でもどうせKは死んでいたと思う。死んでいたか、些か中庸に寄って、長さだけでなく人間的魅力も引き延ばされた生を送ったかどちらかだと思う。尤も、Kの幸せは後者の道にあったに違いない。お嬢さんと結ばれたとすれば、些か信念は失って妥協の色合いを生涯のうちに隠しきれずにはなったかもしれないが、一種の殊勝な諦めが兎にも角にもKが自らの人生に納得するだけの余裕は与えてやれていたかもしれない。少なくとも先生次第では二人は正々堂々とお嬢さんを奪い合うこともできたのだろうからどうあれ先生の苦悩は尤もだ。

 それはともかくKには死んでほしい。『こころ』で一番好きなのはKが死ぬことだ。自らが生きる道、理想への強い信念を抱き続けたKがそれら全てを裏切る自らの感情に悩み自殺する。道への裏切り。それで死ぬからKに憧れる。Kは恋に破れて命を絶ったのではない。Kは自らの信念と矜持がために死んだ。信念との矛盾を先生に突き付けられたKは言う、「覚悟ならない事もない」。信念に背いた自らの生への償いとしてKはその命を絶つ。Kは自らの道に生を賭している。私はつまらない人間にはなりたくない。やりがいも見いだせないことを惰性で続けるのは糞だ。でももしそうなってしまったとき命を絶てるだろうか。きっと怖い。たとえ自分の信念に背いた生き方をしていたとしてもなんだかんだと理由をつけてみすぼらしく生きるに違いない。Kは死ぬから良い。不幸せを引き受けて一念を貫ける人間がどれだけいよう。

『馬鹿だ』とやがてKが答えました。『僕は馬鹿だ』

 

 

 「私」は「淋しい」から先生に会いに来るのだと先生は言う。ところによって読み方が「さびしい」でなくて「さむしい」なのがいい。「私」は自分が「淋しい」のだとは思わない。自分が淋しいのか分からないとき、君はいま淋しいんだよ、と言ってもらえることはどれだけ有難いだろう。先生は自分のことを淋しさを埋めるための下級の代替ぐらいに思っている様子だったが、ここほど先生をあたたかく感じた場面はない。

「…ことによると貴方も淋しい人間じゃないですか…」

「私はちっとも淋しくはありません」

 

 

 小説に警句を挟むことは結構だが、わざわざ筆者としての立場を断って挟み込もうとするのは興ざめだし、人物の口を借りて無理矢理社会批判を語らせるなどもつい作者の時代背景を考えてしまって味気がない。印象的なアフォリズムを違和感なく挟むことにはやはり相応の文才が要るのかもしれない。有名な『草枕』の冒頭など、漱石の文章の中には毒気があって、しかしどこか的を射た文句がするりと入り込んでいることがある。

 先生の遺書の中で好きな文句がある。

 

「…私は冷かな頭で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。…」

 

 「生きている」というところがまたいい。

 人と違いたがる人がとても多い。「変人」は誉め言葉になりつつある。「変わっている」と思われたくて型を破ろうとする人ばかりで気分が悪くなる。破る型も碌に身に着けていない人間がどうやって型を破るのだろう。跳ね返ってみるよりも先に力強く受け入れてみることが必要だ。跳ね返るのはそれからでもいい。